➅「重重帝網」と即身の「身」
「帝網(たいもう)」:
主として華厳経で語られる帝釈天の宮殿を覆う網を用いた譬喩表現。別名「因陀羅網(いんだらもう)」。網目の一つひとつに宝珠(宝石)が結ばれ、それらの宝珠は互いに互いの姿を映し合い、その輝きは無限に重なり合っています。
空海はここで、一つの宝珠に宇宙の全体が映り込み、その宝珠もまた宇宙全体に照らし出される光であるかのように、諸尊に備わった無数の「三密」が、「円融無礙」すなわち互いに妨げ合うことなく完全に溶け合っていることを説きます。その中で即身の「身」は、様々な「宝珠」のように無限の様相において表されます。
「身」とは、
我身:私たち凡夫のこの身体
仏身:悟りを開いた仏の身体
衆生身:あらゆる生きとし生けるものの身体
または、「四種法身」として、
自性身:宇宙の真理そのもの、不変の法身。
受用身:自らの悟りの喜びを自ら受用する身、自受用身。
変化身:衆生を救うために姿を変えて現れる身、応身。
等流身:仏の功徳が衆生の機根に合わせ、衆生と同じ姿をとって現れる身。
さらに、曼荼羅の表現形態である「三種秘密身」で言えば、
字(文字・真言・種子)
印(象徴・印契・印相)
形(姿・三昧耶形・仏の形像)
「鏡中の影像と灯光の渉入」:
これらの多種多様な「身」は、単に物質的に重なり合うのみならず、無限に映し合う「鏡の中の影」や入り混じり輝きを増していく「いくつもの灯火の光」のように、「六大・四曼・三密」として「無礙(妨げがない)」の状態にあります。
「不同にして同、不異にして異」:
空海はこれらの「身」について、仏身がそのまま我身あるいは衆生身であるのと同様に、我身・衆生身もまた仏身と同じ構成を持つ者としてこの世界に溶けあい存在していると説きます。それらは「不同(形としては異なる身)」であっても、本質的には「同(一つの同じもの)」であり、その逆に「不異(本質は一つ)」であるが、この世界の現象としては「異(多種多様)」であるとされています。
それは自分という部分の中に宇宙という全体があり、またこの全体の中に部分があるという存在論的に互いが分かちがたく結びついた状態にあることを意味しています。また、この本質的な「同」あるいは「不異」こそが、「即身」による成仏の正当性を支える理論的核心と言えます。
「三等無礙の真言」:
アサンメイ:無等(等しいものがない、比類なきもの)
チリサンメイ:三等(三つのものが等しい)
サンマエイ:三平等(三つのものが平等である)
ソワカ:成就(願いが叶う、成就あれ)
空海は、ここで言われる「三」の表れとして、以下の例を示します。
⑴仏・法・僧(三宝:悟りを開いた「仏」、仏の教えとしての「法」、教えを実践する「僧」)
⑵身・語・意(三密:身体・言葉・心の働き)
⑶心・仏・衆生(華厳経で説かれる「心仏及衆生、是三無差別」生きとし生けるものは本質的に差別なく、同一であるという教え)
空海は、このように存在や活動の様態として示される「三つの法」が、個々別々のものとして表象されながら、実のところは、いずれもが本質的には「平等平等」であり、また終極的には「一」であると説きます。つまり、ここで「一」に対置される「三」とは、「無量」として無限の広がり・多様性を包含するものとして「一」と共存するもの、と言えます。そして、この「三」によって表される「一」、あるいは「一」の中に表れる「三」が、混沌とせずに一つに溶け合うことこそが「重重帝網なるを即身と名づく」の意味するところです。

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