⑦「成仏」の偈頌
即身成仏の偈頌は、これまで見たように前半四句によって「即身」を讃えています。そして続く後半四句は「成仏」を讃える詩文として、その様相を顕わにします。
(第五句)法然に薩般若を具足して
「法然」はあるがままの自然を、「薩般若」は全知の智慧を、「具足」は何一つ欠けることなく備わり満ち溢れることを意味しています。空海は、ここで『大日経』を引用し、すべての智慧を備え持ち、自然の姿のままで他者を救う力が溢れ出している「大日如来」を説きます。
「我は一切の本初なり、号して世所依と名づく。説法等、比無く、本寂にして上有ること無し」
「我」とは大日如来の自称です。「一切」とは無限の存在を指し、「本初」とは大日如来がその存在の根本として、あるがままの自然な状態において「大自在(何物にも縛られない自由)」と「一切の法(あらゆる真理)」とを体得している「本祖」あるいは「世所依(世界の拠り所)」であることを意味しています。またそれは、比肩するもののない真理として、「本寂(本来的に静寂)」すなわち不変であり、これ以上の高みのないものとして存在する、と定義されています。
また、大日如来と同様に私たち衆生も「本寂」をこの身に備えてはいるけれど、衆生はそれに気づかず、知ることもない。そのために仏は「理趣(真理に至る道すじ)」を示すことによって、衆生を悟りへと目覚めさせるのだ、と空海は説きます。
「因果」の枠組みを超越すること:
顕教の説く「因果論」では、善い行いの積み重ねを原因として、悟りという善い結果を生むとされますが、真言密教においては、「因(原因)」がそもそも「空(存在しないもの)」であり、ゆえにそこから生まれる「果」もない、とされます。密教における「真言の果」とは、原因があって生じるのではなく、「因果」の枠組みから離れたもの、迷いの連鎖を超越したものを指しています。
「本不生(ほんぷしょう):生まれない、ゆえに滅することもない永遠」という概念もまた、因果の超克と同じく、「法然具足(あるがままに、すべてが備わっている)」という、この句の意義を表しています。もし悟りが原因によって得られる結果であるとすれば、それは条件次第の不安定なものとなりますが、空海は悟りを「因果」の枠を越えた永遠として、また「宇宙そのものの不変の性質」として位置付けていると言えます。
次に空海は『金剛頂経』を引き、大日如来を中心とした宇宙の姿を示します。
「自性所成の眷属、金剛手等の十六大菩薩、乃至各各に五億俱胝の微細法身の金剛を流出す」
大日如来から生まれ出た「眷属」である「十六大菩薩」は、そこからさらに生まれた「五億倶胝(計り知れないほど無数)」の微細な真理を備えた身体から「金剛:不滅の智慧」を流れ出させている、と言います。これが種々の曼荼羅に象徴的に描かれた宇宙の姿です。智慧とは、顕教に説かれるような悟りによって得られる一つの到達点ではなく、中心としての大日如来から十六大菩薩へ、さらにそこから放射状に「流出」した動的エネルギー体として、無限にこの宇宙に遍在するものである、ということを意味しています。
「薩般若(さっぱんにゃ)」:
サンスクリット語にいう「薩羅婆枳嬢曩:Sarvajñāna」を音写した語。
空海はこれを「一切智智」と翻訳し、宇宙の全真理を共時的に把握する知性として用いています。そして「智」を「決断簡択」すなわち物事を正しく判断し、選び分けることとしています。それは「智」が単なる抽象的な概念ではなく、この現実世界において「真実と虚偽を見分ける力」であり、「正しく行動を選択する力」を内包する実践的な知性であることを意味しています。
(第六句)心数・心王、刹塵に過ぎたり
(第七句)各五智・無際智を具す
心王:精神の主体。宇宙の根本的な智慧。「法界体性智」
心数:多種多様でありながら一つに統合されている心の動き。「多一識」
この第六・第七の両句において、心の無限の多様性が示されます。
真理を見極める「決断」の表象においてそれは「智」となり、心の働きが集まり、湧き起こる時それは「心」として表れ、「軌持(規範となる理解の指針を持つこと)」によってそれは「法門(教え)」と呼ばれます。
このように無限に多様な心の在り方は、つねに人から離れることなく、ただ心という一つの現象が異なる角度から表現されたものです。諸尊においては、「心数・心王」その一つひとつがそれぞれに「五智」と「無際智(時空を超えた、限りなく広大で深遠な仏の智慧)」を完全に備えていると説かれています。これは顕教が「一智」によって一切の万物を照らし出すとするのに対し、密教が「刹塵」の中に多元的知性を見出す実践的活動としての「即身成仏」の論理的な支柱となっています。
(第八句)円鏡力の故に実覚智なり
ここまで「六大・四曼・三密」そして「薩般若」によって描き出された多層的な宇宙の姿が、「真実の悟り」として成立する「所由(根拠)」を、空海は鏡の比喩を用いて示しています。それは「成仏」の有り様を示すものです。「円鏡」はここで真実を曇りなくありのままに映し出す認識装置として機能しています。
「如来の心鏡」は「明鏡」としてあらゆる物の姿を曇りなく映し出しています。それは「法界(全宇宙)」の頂において静寂を保ちながら、あらゆるものを照らし、なおかつ「不倒不謬(逆さにも、誤ることもない)」の状態にあるものです。このような状態にあることこそがまさに「実覚智(真実の悟りの智慧)」を得た「成仏」であるとされています。
「成仏」の有り様:
鏡は自ら進んで何かを映し出すことはないという意味では「寂」であり受動的なものですが、真実をありのままに映し出すものとして自ずから能動的なものになります。密教的な悟りとは、この鏡ように主体的・主観的であることを離れ、絶対的な客観性において宇宙をありのままに眺める視点を手に入れることであると言えます。「法身説法」といわれるように、自然は絶え間なく真実の姿において私たちに語りかけています。「加持」においてその真実の姿を見出すこと、それこそが即身による「成仏」の意味するところです。そしてまた、自らを「増上縁」として他なるものの助けとなることが「成仏」の有り様であると言えます。
空海はこの『即身成仏義』において、一貫して、今この瞬間にこの肉体を持ったままで、宇宙の一部として、大日如来と重なり溶け合うことができる能力を、私たちは生まれながらに備えている、と論じています。それはこの宇宙とそこに存在する万物を肯定する哲学であると言えるでしょう。
密教における修行とは、何もないところから作り出された智を得ることではなく、鏡に付いた曇りを拭い取り、「円鏡力」によって自分もまた鏡に映る真実であり、その世界の一部であると気づくことである、と読み解くことが出来ます。

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