❹曼荼羅阿闍梨の導きと「三密加持」の修養、そして「即身成仏」へ
「内証自覚聖智(ないしょうじかくしょうち)」: 自受用身。大日如来が自ら楽しむ究極の悟りの境地。
「他受用身の智」: その悟りを他者(金剛薩埵など)に伝えるための知恵。
これらの智を頼りとするなら、この現生において師匠としての阿闍梨と出会い、やがて曼荼羅世界へと入ることが出来るとされます。地上の師である阿闍梨とは、彼自身が宇宙的な知恵に繋がる存在であり、たんに知識を伝導する者ではなく、修行者が悟りの世界へと繋がるための媒介となる者として機能します。
修行者は阿闍梨から授かる灌頂の儀式(羯磨)を行うことで、宇宙的な慈悲と実践を象徴する普賢菩薩の深い瞑想(三摩地)の力によって、仏の智慧の象徴である金剛薩埵を招き入れ(「入我」)、修行者の身体の中へと一体化(「我入」)させることが出来る、とされます。
「入我我入(にゅうががにゅう)」:
「入我」は仏が我の中に入る、「我入」は我が仏の中に入ること。「三密加持」により仏と自己の境界が消えた状態と言えます。
阿闍梨に導かれ「加持の威徳力」によって、修行者は「須臾の頃(きわめて短い時間)」のうちに、計り知れないほど多くの「三摩耶(仏が衆生を救うという誓い)」と「陀羅尼門(真言の智慧)」体得するのです。
※悟りは、個人の努力の積み重ねによってたどり着き得られるものではなく、「加持の威徳力」という外的要素を取り込み、瞬時に自己の内部を変容させるような現象とされています。「阿闍梨(師匠)」の役割は、「加(仏から与えられる智慧)」と「持(その智慧を修行者が受け取り保持すること)」の媒介者と言えます。
「俱生我執の種子の変易」:
生まれつき魂の奥底に刻まれている「自己愛や実我への執着(我執)」を、密教儀礼によって「仏の種子」へと変えること。これにより修行者は「仏家(ぶっけ)に生ず」すなわち生物学的な意味での「両親から生まれた人間」としての生を終え、仏の心・口・法から生まれた「仏の子」として「即身成仏(肉体を残したまま、精神的な二度目の誕生)」を果たすことになります。そして「法財」としての「三密の菩提心の教法」、自分の身体・言葉・心が、そのまま悟り(菩提心)の現れであるという実感的確信を得るに至るとされるのです。
❺身体的な経験と精神的意識における「三密」の平行的実践
まず、曼荼羅を視覚的に捉える(瞻都する)ことの意義が説かれます。それは「阿頼耶識(根本的な意識層。深層心理)」への「種子」の埋め込みによる認識論的転換を意味しています。
唯識学において、私たちのあらゆる経験は「阿頼耶識」に蓄積されていきます。空海は、曼荼羅をひと目見るだけで、その清浄なイメージが「金剛界の種子」として「阿頼耶識」の最深層に植え付けられ、存在の根本が変容(変易)すると主張しました。それは緻密な密教の理論を理解する前であっても、視覚的な直感によって「須臾に(瞬時に)」信仰が確立されるという「事相(実践的体験)」の優位性を示しています。
また金剛名号の授受によって、修行者は存在論的転換をも果たします。「金剛名号(こんごうみょうごう)」とは、灌頂の儀式において弟子が授かる新しい名前(法名)です。世俗の名前を捨て、「金剛(不滅の知恵)」の名を冠した存在へと生まれ変わることで、「二乗(声聞・縁覚)」や「十地の菩薩」すらも超越した、仏としての位階に列することになります。
さらに「四威儀」と「五密瑜伽」による日常の仏性化が説かれます。修行はただ坐禅中にだけおこなわれるのではありません。「四時(一日中)」において、「四威儀」つまり「行住坐臥(歩く・止まる・座る・寝る)」というあらゆる日常動作を修行の実践的な場とすることです。
「五密瑜伽(ごみつゆが)」とは、金剛薩埵を中心とする五つの知恵を自分自身の中に溶け込ませる瞑想です。日常にありふれた人間の本能的な「欲・触・愛・慢」といった「煩悩」を否定せず、そのまま悟りの智慧へと昇華させる「煩悩即菩提」の実践と言えます。
⑴金剛薩埵:中心に位置し、悟りの菩提心を象徴。
⑵欲金剛:欲望を菩提心へと導く力。
⑶触金剛:触れ合いの喜びが清らかな菩提心へと向かう力。
⑷愛金剛:菩提心による万物への執着を超えた愛。
⑸慢金剛:一切を圧倒する自在な菩提心の誇り。
これら日常の仏性化を絶え間なく心に止めることによって、やがて「見聞覚知(見たり聞いたりして得られる日常の知覚)」の中で「人・法二空(にっくう)」つまり自分という実体(人)と現象という実体(法)はどちらも「空」であると知り、またこれらは区別なく「平等」であると体感することになる。この時ついに日常の修行は「初地(悟りの入り口)」に至る。
そして、この「五密」が相応し合う教えを修めた時には、もはや悟りの世界(涅槃)にも迷いの世界(生死)にも執着することなく、果てしなく続く迷いの輪廻(五趣生死:地獄・餓鬼・畜生・人・天での転生)の中においても、生きとし生けるものを救い、また利益を与えるために、自分の体を百億に分身させ、あらゆる場所を巡って、衆生を悟りへと導いて最終的に金剛薩埵の位を体得させる者となるのです。
「三密の金剛を以て増上縁と為す」:
増上縁(ぞうじょうえん): ある現象が起こるのを助ける強力な条件のこと。
日常の修養においても、不完全な自身の「三密」が「加持」により悟りを得た完全な仏の「三密」と「瑜伽」し、金剛のように強くする「増上縁」によって、大日如来の境地(三身の果位)を現実に体現することになります。
「三身(さんじん)」
⑴法身:自性身。宇宙の真理(あるがままの真実)。永遠不変で、すべての根源となる仏。大日如来。
⑵報身:受用身。誓願と修行の成果(報い)として得た、智慧と功徳に満ちた姿。
浄土(極楽など)において説法をする存在。阿弥陀如来や薬師如来など。
⑶応身:応化身。衆生の能力や機根に合わせ、救済のために姿を変えてこの世に現れる仏。人々を救うため、具体的な姿を保持して現れた釈迦如来などの歴史上の人物。
❻「三密加持して速疾に顕わる」とは
空海が様々な経典の引用によって示した「三密加持」は、単に主観的な教義の解釈を語っているのではなく、「即身成仏」に至るための客観的な、また必然的な働き(活動)による極めて具体的・実践的方法論を示していると言えます。それが修行の場にだけでなく、日常生活のあらゆる場面において実践されること。そして、まさにその場において「即身成仏」達成されることこそが、偈頌第三句「三密加持して速疾に顕わる」の意味するところと解されます。
また空海は「加持」という言葉を「仏日」と「心水」の比喩によって説きます。
「加」:「仏日の影、衆生の心水に現ずる」
仏の慈悲の心がまるで太陽(仏日)のように、人々の心という水(心水)を照らし、そこに映し出されること。仏からあふれる自然な働きかけ。
「持」:「行者の心水、よく仏日を感ずる」
信心を持ち修行する者の心という水が、その太陽の光をしっかりと受け止めて、保持すること。「三密」の修行による能動的な光の受容。
宇宙の真理そのものである大日如来は、別名「遍照金剛」ともいわれる通り、あらゆる人々、世界のすべてを分け隔てなく照らしています。迷いや煩悩をかかえた衆生にも同様にその光は注がれていますが、波立つ心の水面にその光がきれいに映ることはありません。「三密」の行いとは、この心の水面を平穏に静め、太陽がありのままに映し出されるための修法であるとも言えるでしょう。そして、ここには成仏というものが、新しい何かを得ることによって成し遂げられるのではなく、これまでもずっと自分を照らしてくれていたこの自然の光(「本有の三身」:本来から備え持った仏性)をこの身体に感じ、自分自身がそれをありのままに自覚することである、という空海の思想の哲学的核心が表れています。
即身の「即」:
「即時」がまさに「その時」、「即日」が同じ「その日」を意味するのと同様に、「即身」は今ここに生きる「この身体」を意味しています。それは「この身体を捨てて、死後や来世に成仏する」という顕教の成仏観を乗り越え、今、ここにある肉体の中に、宇宙的な法身を体現することと言えます。

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