七夕のこと(1)

七月七日の七夕は、日本全国に広く知られた風習で、天の川を渡り年にただ一度出会う織姫(琴座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)の伝説は少し切ない恋の物語として子供のころからなじみの深いお話です。二つの星の恋の成就にあやかって、誰もが願いを込めた短冊を笹にくくった経験があるでしょう。
この記事では、誰もが知っているこの七夕をより深く探ってみたいと思います。

【伝承から今日に至る変容】
人々は星を眺め、太古の昔からそこにある星への信仰を深めてきました。旧暦の七月七日、天頂付近に位置し強く輝く織姫星は、その青白く輝く姿が、清らかな「織り糸」や「機を織る乙女」を連想させたと言います。今日、日本の年中行事の一つとして広く定着した七夕ですが、起源をたどると古代中国から伝わった書と日本古来の神への信仰が結びついて形作られたことが分かります。

◎七夕の記録・受容と変遷年表◎
紀元前11〜7世紀頃 中国『詩経』 小雅・大東に「跂彼織女」「睆彼牽牛」と星の名が初見される。5〜6世紀頃、百済から渡来した「五経博士」によって、儒教の教典の一つとして体系的に日本に伝来。

紀元前2〜1世紀頃 中国『史記』天官書 「織女は天女の孫なり。其の主は織、布帛なり」。職能の確定。7世紀、遣隋使小野妹子あるいは高向玄理ら留学生によって、「正史(国家の公式記録)」の模範として日本に請来。

2世紀頃 中国『古詩十九首』 「迢迢たる牽牛星」。織女と牽牛の「悲恋」の物語化の萌芽。7世紀後半〜8世紀初頭、遣唐使が日本に請来した詩文集『文選』に収録。

6世紀半ば頃 中国『荊楚歳時記』 7月7日の夜、針に糸を通す「乞巧奠」の具体的作法の記録。8世紀初頭(遣唐使)、年中行事(カレンダー)の典拠として日本に請来。

624年 中国『芸文類聚』百科全書。七夕の詳述がある。806年、空海は第12次遣唐使(804年発)に随行し、長安で膨大な書物を収集し日本に請来した。その中の一書。

712年(和銅5年)『古事記』アヂシキタカヒコネを称える歌に「おとたなばた」の記述。

720年(養老4年・白鳳期)『日本書紀』一書(異伝)に、水辺で機を織る少女(棚機津女の原型)の描写。

797年(延暦16年)『続日本紀』734年、聖武天皇が七夕の宴を催す。公式行事としての初見。

600年代後半から700年代後半に成立『万葉集』「七夕歌」群。棚機と星伝説の融合が窺える。

800年代初頭 中国『長恨歌』(白居易)「七月七日長生殿」。七夕を「永遠の愛の誓い」へと劇的に上書き。838年の遣唐使・藤原常嗣らが全巻を持ち帰ったとされる『白氏文集』に収録。

806年『御請来目録』空海著。唐より持ち帰った書を一覧した目録。『芸文類聚』の記録あり。

1001年頃『枕草子』平安貴族による雅な乞巧奠の受容。

1008年頃『源氏物語』平安貴族による雅な乞巧奠の受容。梶の葉への和歌揮毫など。

1300年前後『吾妻鏡』鎌倉将軍家が「権威の証」として宮中の七夕行事を導入した記録。

1300年代以降 能楽謡曲(『飼酒』等)七夕伝説を視覚的芸能として舞台化。庶民への物語の浸透。

1400年代(室町期)『下学集』辞書。七夕をお盆の前の「禊(みそぎ)」の儀式として定義。

17世紀後半〜18世紀 寺子屋の誕生。商品経済の発達により、農民や町人も年貢の計算、契約書の作成、訴訟などのために「読み・書き・そろばん」が重要となり、18世紀後半には全国に普及。七夕では、子供たちが手習い・習字の上達を願った。また色紙や短冊が安価に流通するようになり、短冊に願いを書くという現在に残る形が始まった。

1800年代前半『徳川実紀』江戸幕府が「五節句」を式日(公休日)として法制化した公記録。

1800年代半ば『守貞謾稿』喜多川守貞著。江戸の町中に溢れる七夕飾りや寺子屋の習俗を詳述。

1872年(明治5年)学制の発布。「被仰出書(おおせだされしょ)」には「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからんことを期す」とあり、庶民の教育は寺子屋の「個々の能力に合わせた手習い(随時入学・個別指導)」から、小学校の「一斉授業・学年制・検定教科書」へと転換。七夕は小学校での年間行事の一つとなった。

1873年(明治6年)明治政府による公的な行事としての「(七夕を含む)五節句」廃止。旧暦から新暦への改暦により、民間風習としての七夕は、新暦7月7日に七夕を行う地域と、旧暦による月遅れの8月7日に行う地域とに分かれた。

1929年 折口信夫「たなばたと盆祭りと」『民俗学 第一巻第一号』

1930年代後半〜 戦時色の強まりにより、派手な飾り付けが「贅沢」として自粛の対象に。七夕の短冊は兵士への慰問袋に添えられるなど、切実な「願い」のお守りとして細々と続いた。

1945年 柳田國男『日本の祭』

1946年 仙台七夕まつりの復興。江戸期伊達藩下で隆盛と衰微を繰り返し続いた。戦時下、一時中断するも戦後に復活し、今日まで続く。【日本三大七夕祭り】

1951年 湘南ひらつか七夕まつり:戦後の復興を祈念した前年の平塚復興まつりを受け、今日まで続く。【日本三大七夕祭り】

1954年 安城七夕まつり:戦後、人とまちの交流が活発になっていく中で、街を盛り上げようという商店街の企画から始り、今日まで続く。【日本三大七夕祭り】

1955年 柳田國男『年中行事覚書』

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