七夕のこと(2)

◎文献、その歴史的意義1・中国における伝承から儀式化・物語化への変容◎
●『詩経』
紀元前11〜7世紀頃にまとめられた中国最古の詩集です。
空に輝く二つの星は、その名前が「織物」や「牛引き」という役割に結びつく「職能(仕事)」の象徴として描かれ、そこに織姫と彦星の恋伝説としての意味付けはありませんでした。
【『詩経』小雅・大東より】
跂彼織女(跂たる彼の織女) 終日七襄(終日七襄す)
雖則七襄(則ち七襄すと雖も) 不成報章(報うる章を成さず)
睆彼牽牛(睆たる彼の牽牛) 不以服箱(以て箱を服けず)
【現代語訳】
爪先立ちしている(こと座の)織女星は、一日に七度も場所を変える(ほど熱心に働いている)。けれど、いくら働いても織物(文章)を織り上げることはない。輝いている(わし座の)牽牛星も、(荷車を引く)牛に軛(くびき)をかけて働かせることはない。

●『史記』
紀元前2〜1世紀頃、前漢武帝の時代に司馬遷(しばせん)が20年の歳月をかけて著した中国最初の通史です。記述様式は、紀伝体。その「天官書」は、天体の動きを地上の人間社会の投影として読み解く「天人相関」の思想に基づいて記されました。その中で織女は天帝の血を引く、高貴な女性(天上の職能神)として描かれています。
【『史記』卷二十七「天官書第五」より】
婺女,其北織女。織女,天女孫也 (婺女、その北に織女あり。織女、天女の孫なり。)
【現代語訳】
婺女星があり、その北には織女星がある。織女は、天帝の孫娘である。

●『周処風土記』
3世紀後半、中国西晋時代周処が著したとされる。中国における「風土記」の先駆けとも言える地誌。元の書物は散逸し、『続斎諧記』や『荊楚歳時記』に引用された逸文としてのみ内容が伝わっています。七月七日という日付と七夕が結びついた初出記事と言われています。
「七月七日、牽牛織女聚会之夜。」(七月七日は、牽牛織女聚会の夜なり)
【現代語訳】
7月7日は、牽牛と織女が相会う夜である。

●『続斎諧記』は5〜6世紀、中国南朝時代、一説に呉均編著とされる(不思議な話を集めた)志怪小説集。桂陽の武丁という人物が、神仙の世界に迷い込み、七夕伝説の主人公である織女と遭遇する不思議な物語。『周処風土記』の記事から着想を得て織姫が天の川を渡り牽牛に会いに行く物語として書き換えられた。
【『続斎諧記』「桂陽武丁」より】
桂陽成武丁有仙道(桂陽の成武丁、仙道を得たり)
常在人間 忽謂其弟曰(常に人間に在り。忽ち其の弟に謂ひて曰く)
七月七日織女当渡河暫詣(七月七日、織女河を渡り、暫く牽牛に詣ると)
弟問曰 織女何事渡河 去當何還(弟問いて曰く、「織女何事か河を渡る。去って当に何れの時か還るべき」と)
答曰 織女暫詣牽牛 吾復三年當還(答えて曰く、「織女暫く牽牛に詣る。吾復また三年にして当に還るべし」と。)
明曰失武丁(明日、武丁を失えり。)
牽牛至今云織女嫁牽牛(今に及るまで織女牽牛に嫁すと云ふは、此れなり)
【現代語訳】
桂陽の地に成武丁という者がおり、仙術を修めていた。普段から人間の世界に暮らしていたが、ある日突然、弟に向かってこう言った。「七月七日は、織姫が天の川を渡ることになっている。織姫はしばらく牽牛(彦星)のところへ訪ねて行くのだ」と。弟が「織姫はどうして川を渡るのですか? 行ったらいつ帰ってくるのですか?」と尋ねると、兄(武丁)は「織姫は少しのあいだ牽牛に会いにいくだけだ。私は(仙界へ)戻って3年後にまた帰ってくるだろう」と答えた。翌日、武丁の姿は消えていた。今になって織姫が牽牛に嫁いだ(会いにいった)と言い伝えられているのは、この(成武丁の)話がもとになっている。

●『文選』「古詩十九首其十」
526年から530年頃(中大通2年頃)、中国の後漢六朝時代に南朝梁の昭明太子(蕭統)が編纂した詩文集です。7月7日という設定はありませんが、牽牛星と織姫は天の川によって永遠に隔てられた悲恋の象徴として描かれます。
【『文選』「古詩十九首其十」より】
迢迢牽牛星(迢迢たる牽牛星)     皎皎河漢女(皎皎たる河漢の女)
纖纖擢素手(纖纖として素手を擢んで) 颯颯弄機杼(颯颯として機杼を弄す)
終日不成章(終日 章を成さず)    泣涕零如雨(泣涕 零ちて雨の如し)
河漢清且淺(河漢 清く且つ淺し)   相去複幾許(相去ること複た幾許ぞ)
盈盈一水間(盈盈たる一水の間)    脈脈不得語(脈脈として語るを得ず)
【現代語訳】
遠く離れた牽牛星よ。きらきらと輝く天の川の織姫よ。織姫は細く白い手を動かし、さっさつと機を織る音を立てる。しかし一日中、布の模様ができない。織姫の目には涙が雨のように降り注ぐ。天の川は澄んでいて浅いけれど、二星の隔たりは、あとどれくらいだろうか。満ちあふれた一水の間にあって、じっと見つめ合っても言葉を交わすことができない。

●『荊楚歳時記』
6世紀半ば頃南北朝時代、宗懍が記した年中行事を記録した書。七夕について先行する文献を挙げた後、当時の天文学的知識、七夕が儀式化された「乞巧奠」の手法の原型などが語らる。また牽牛、織女が分かたれた原因が天帝への借金返済の遅延によるものであるという俗っぽい説が語られる。

【『荊楚歳時記』七月七日より】
七月七日,為牽牛織女聚會之夜。(七月七日は、牽牛織女聚会の夜と為す。)

 《中略》
牽牛星,荊州呼為「河鼓」,主關梁。(牽牛星、荊州には「河鼓」と呼び、関梁を主る。)
織女星則主瓜果。(織女星は則ち瓜果を主る。)
嘗見道書云(嘗て道書に見ゆ、云わく、)
「牽牛娶織女,借天帝二萬錢下禮(「牽牛、織女を娶り、天帝の二万銭を借りて礼を下す。)
久不還,被驅在營室中。」(久しく還さず、営室の中に駆り遣らる」と。)
河鼓、黃姑,牽牛也,皆語之轉。(河鼓・黄姑は、牽牛なり。皆語の転なり。)
【現代語訳】
牽牛星を荊州(湖北省付近)では「河鼓(かこ)」と呼び、関所や橋を司る。織女星は瓜(うり)や果物を司る。かつて道教の書物で見たところでは、「牽牛が織女を娶る際、天帝から二万銭を借りて婚礼の儀(下礼)を行ったが、長らく返済しなかったため、営室(星座の名)の中に追い払われた」という。河鼓、黄姑、牽牛は、すべて呼び名が転じ、訛ったものである。

 《中略》
是夕,人家婦女結綵縷(是の夕、人家の婦女、綵縷を結び)
穿七孔針,或以金銀鍮石為針(七孔の針を穿つ。或いは金銀鍮石を以て針と為し)
陳几筵酒脯瓜菓於庭中,以乞巧(几筵・酒脯・瓜菓を庭中に陳ね、以て巧を乞う。)
有喜子網於瓜上,則以為符應。(喜子の瓜上に網する有れば、則ち以て符応と為す)
【現代語訳】
この夜、家々の婦人たちは、色鮮やかな糸をまとめ、七つの穴がある針(金・銀・真鍮製など)に糸を通す「針仕事の上達(乞巧)」を競います。庭には机を並べ、酒、干し肉、瓜、果物を供えてお祈りをします。もし、蜘蛛(喜子)が瓜の上に網を張っていれば、願いが聞き届けられた兆しであると考えました。

 《中略》
周處《風土記》曰(周処の『風土記』に曰く)
「七月七日,其夜灑掃庭中露,施几筵,(「七月七日、其の夜、庭中に灑掃して露し、几筵を施し)
設酒脯時菓,散香粉于筵上,(酒脯時菓を設け、香粉を筵の上に散らし)
以祀河鼓〈即牽牛也。〉織女。」(以て河鼓〈即ち牽牛なり〉・織女を祀る」と)
言此二星神當會,(言ふ、此の二星神当に会すべく)
守夜者咸懷私願。(夜を守る者は咸私願を懐く)
或云(或いは云ふ)
「見天漢中有奕奕白氣,(「天漢の中に奕奕たる白気)
或光耀五色,以為徵應。(或いは光耀たる五色を見るは、以て徴応と為す)
見者便拜得福。」(見る者は便ち拝して福を得」と)
然則中庭祈願,其舊俗乎?(然らば則ち中庭に祈願するは、其れ旧俗か)
【現代語訳】
周処の『風土記』には次のように記されている。
「七月七日の夜、庭をきれいに掃除して(屋根のない)露天の状態にし、机と座席を設ける。そこに酒や干し肉、季節の果物をお供えし、座席(筵)の上には香粉を撒いて、河鼓(わし座のアルタイル、すなわち牽牛星)と織女(こと座のベガ)を祀るのである」
(これは)この二つの星の神がまさに出会う時だと言われており、夜通し眠らずに見守る者は、皆それぞれ心の中に個人的な願いを抱いている。
またある人は、「天の川の中に、美しく輝く白い気や、あるいは五色に光り輝くものが見えるのは、神が願いを聞き届けた兆しである。これを見た者はすぐに拝むことで幸福を得られる」と言っている。

●『芸文類聚』
624年(武徳7年)中国の唐代初期、欧陽詢らによって編纂された百科全書。「七月七日」について36項目にわたって過去の文献・詩を取りあげて解説しています。その中には「カササギが橋を作る」話や「おしろいを撒く」話が当時の古典から網羅され、七夕「乞巧奠」の手法の手引書となりました。
その中で5世紀前後に梁の時代の殷芸が著した小説、「一年に一度だけ会うことが許される」というモチーフが語られる一節を取り上げます。
【『芸文類聚』注釈より】
天河之東有織女、天帝之女也。年年機杼労役、織成雲錦天衣、容貌不暇整。天帝憐其独処、許嫁河西牽牛郎。嫁後遂廃織紉。天帝怒、責令帰河東、許一年一度相会。
【現代語訳】
天の川の東に織女あり、天帝の娘なり。年ごとに機織りに励み、雲錦の天衣を織り上げ、容姿を整える暇もない。天帝はその独り身を不憫に思い、川の西の牽牛に嫁ぐことを許した。嫁いだ後、織女は機織りを止めてしまった。天帝は怒り、彼女を川の東に戻し、一年に一度だけ会うことを許した。

●『長恨歌』
824年から845年にかけて75巻本として完成された白居易の『白氏文集』に収録された長編詩。「裁縫が上手くなりますように(乞巧)」という実利的な祈りから、七夕は「愛する人と来世まで結ばれることを願う」という浪漫的な夜としての性格を強めました。
日本においては平安貴族に多大な影響を与え、菅原道真や清少納言・紫式部などに愛読され、『源氏物語』「桐壺」巻では、この詩が構成から表現に至るまで手本とされました。また、この詩から四字熟語の「比翼連理」(男女の仲が非常にむつまじく、深く結びついている様子)は生まれました。
【『長恨歌』より】
七月七日長生殿(七月七日長生殿)
夜半無人私語時(夜半人無く私語の時)
在天願作比翼鳥(天に在りては願はくは比翼の鳥と作り)
在地願為連理枝(地に在りては願はくは連理の枝と為らんと)
天長地久有時尽(天は長く地は久しきも時有りて尽くとも)
此恨綿綿無絶期(此の恨み綿々として絶ゆるの期無からん)
【現代語訳】
七月七日の七夕の夜、長生殿(ちょうせいでん)にて、夜が更けて周りに誰もいなくなった時、二人はひそかに囁きあった。「天にいるならば、二羽で一つの翼となって飛ぶ比翼(ひよく)の鳥になりましょう。地にいるならば、二本の幹が一つに重なり合う連理(れんり)の枝になりましょう」と。この広大な天や地でさえ、いつかは尽き果てる時が来るかもしれない。しかし、この(死に別れた)悲しみだけは、糸を引くようにいつまでも続き、決して絶える時はないのである。

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