フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜』ノート(1)

【原題】Zur Genealogie der Moral, 1887

【参照テクスト】岩波文庫、1964改版、木場深定訳

【時代背景】19世紀末、伝統の崩壊と科学の台頭
〇ダーウィンの進化論(『種の起源』1859)や科学技術の急速な発展により、キリスト教的な世界観が根底から揺らいだ。
〇1871年1月18日、ビスマルク指導のもとプロイセン主導によるドイツ帝国が成立。
ナショナリズムや大衆社会が形成されていく中で宗教的伝統は崩壊しつつあった。人々は既成の価値観の根源を失い、ニーチェの目にはそれが「ニヒリズム(虚無主義)」へと向かっているように映っていた。
〇ドイツ哲学界の主流は、カント主義や世俗化されたキリスト教的道徳観など。
ニーチェはそれを「生のエネルギーを抑圧する弱者のための守り」であると見なし、ヨーロッパ文明が総体として「生理的な退廃(デカダンス)」に向かっているという強い危機感を抱いていた。この危機感から、道徳の価値を根底から疑う『道徳の系譜』が生まれた。

【目次】
序言
・私たちは私たち自身の「認識者」ではない。私たちが私たち自身を認識しようとするとき、その私たちは私たちにとってすでに「他者」(抜け殻になった他者のような自分)である。これまで私たちは「私たち自身」の内面(なぜ自分が今の道徳を信じているのか)について「無関心」であった。
・私たちの道徳が持つ先入見の由来について。「善悪」という価値基準はどのような条件のもとに生まれ、その「価値」はどのような価値を持つのか?「善」は「悪」よりも高い価値を持つという価値基準は、人間の進展を阻止してきたのか、それとも促進してきたのか?
・「われわれは道徳的諸価値の批判を必要とする、これら諸価値の価値こそそれ自身まずもって問題とされるべきである」(15ページ)
・善人が悪人よりも価値があるというだれも疑いもしなかった価値判断が本当に真実であるのか?

第一論文 「善と悪」・「よいとわるい」
・道徳史家たち(例えばパウル・レ―の論理)は歴史的精神が欠けた、根本的に非歴史的な考え方をしている。道徳史家たちにとって「よい」とは、ある非利己的な行い(他人のためになすこと)が、その行いによって称賛された者(弱者の視点)から「よい」と考えられたもの、すなわち功利的なもの。ただ、この起源はやがて忘れられ、その行いが習慣的に「よい」ものとして繰り返されることによって、疑いもなく「よい」ものとなった、と説明する。
しかしニーチェにとって、この「弱者の視点」は後世に後付けされたものであり、「よい」とは、つねに力を持ったものによって価値を創出され「よい」判断されるもののことであり、非利己的な行いとは本来的に無関係なもの。

・貴族的強者(あるいはギリシア・ローマ的価値観)における「よい(グート)」と「わるい(シュレヒト 独;Schlecht、「劣った、卑しい」の意)」
「よい」は特権的地位にあるものによって自発的・能動的に生み出されたもの。高貴であり、健康的であり、美しく、またそれを有する自分自身を自己肯定するもの。そして、その反対物である卑賤で、醜悪な、貧しいものが「わるい」ものであった。貴族的地位のあるものにとって「わるい」ものは「不幸な」もの、または持たざる者でもあった。

・隷属的弱者(あるいはユダヤ・キリスト教的道徳観)における「善(グート)」と「悪(ベーゼ 独;Böse、「有害な、邪悪な」の意)」
貴族的価値観に対する弱者による「ルサンチマン(反感)」を原動力とする抵抗の勝利の後に、かつての支配者への憎悪・他者否定から生まれたもの。これまでの貴族的価値観を「悪」とみなし、その反対物として非利己的であること、慎ましくあること、が「善」になった。この価値基準の転換をユダヤ・キリスト教的宗教観が支えた。
・ギリシア・ローマ的なものに対するユダヤ・キリスト教的なものの勝利により、人間は自らの自然な本能を恥じるようになったが、同時に、この勝利によって人間は初めて『複雑で深みのある、魂を持った動物』になった。

第二論文 「負い目」・「良心のやましさ」・その他
健忘;意識が持つ能動的・積極的阻止能力。精神的消化状態における意識のわずかな《白紙状態》であり、健康の一形式。
記憶;「約束をなしうる(忘れない)」という能動的な意欲、その意志の記憶。
・「権力者(支配者)」の支配的本能によって定められた社会的な責任・風習の道徳の中で、人間は「健忘」を否とし、「約束をなしうる」人間であることを要請された。
・社会的な責任・風習の道徳に従うという「良心」によって「約束をなしうる」人間になるということ。そこから進んで、自らに自信と責任を持ち、能動的な意欲によって「約束をなしうる」人間になること。その意志こそがニーチェにとっての「良心」であり、またそう出来るものが「主権的個人」である。
・「健忘」に打ち勝つ記憶術としての苦痛・禁欲主義・「刑罰」の積み重ねによって人間は「理性」にたどりついた。
・「負い目(シュールト 独;Schuld 罪の意)」は「負債(シュルーデン 独;Schulden 借金の意)」に由来する。債権者と債務者との間の契約関係(等価物を案出し交換するというもっとも原初的な個人と個人の関係)の中で、約束を守ること(記憶)が要求される。債権者に対して、債務者(負債あるいは負い目を持つもの)は返済(約束をなしうること)の担保として自分の占有する何か(自分の身体、自分の妻子、自分の自由や生命、宗教においては霊魂までも)を抵当に入れることになる。
・ローマの『十二表法』(紀元前450年頃)における「刑罰」は債務者に対する債権者にとっての支配権であり、形あるものだけでなく、債務者に対する優越感や債務者に苦痛を与えるという快楽が、債務者から返済されるものであった。ローマ時代において「刑罰」による死刑・拷問は王侯貴族の婚儀や神に捧げる「祝祭」に欠かせないものであった。
・ユダヤ・キリスト教的道徳観以後の世界において。
ある共同体の中でその成員であることは、平和という庇護(負債)を受けとる代りに、共同体の風習や法に従う義務を負うこと。法を犯すものは、犯罪者となり「刑罰」を与えられる。「刑罰」は反省(良心のやましさ)を促すものとして機能する。宗教的道徳観の中では、神の恩寵・死後の安楽(負債)を受けとる代りに、敬虔な信者であることが要求される。
◎ニーチェの系譜学的手法が暴き出すもの
「ある事物の発生の原因と、それの終極的効用、それらの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい効用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの圧服であり、支配である。そしてあらゆる圧服や支配は、更に一つの新解釈であり、一つの修正であって、そこではこれまでの「意義」や「目的」は必然に曖昧になり、もしくは全く解消してしまわなければならない。」(88‐89ページ)
・「良心のやましさ」とは人間が人間に、すなわち自分に苦しむ病である。ユダヤ・キリスト教的社会が成立し成熟していくに従って、ローマ的な攻撃・抑圧の本能は外へ向かうことが出来なくなり、その本能はやがて自らの内側へ向かった。これが「良心のやましさ」の起源、すなわち本能の内面化であり、のちに人間の「魂」と呼ばれるものを生んだ。さらに道徳的価値を持つ「非利己的なもの」は起源においてこの「良心のやましさ」を前提としている。
・「われわれ近代人は、幾千年にわたる良心の生体解剖と自己の動物虐待の相続人である(中略)本来はそれとは逆の試みが可能であるのに」(114ページ)
・「だが、いつかは――この腐朽した自疑的な現代よりも一層力強い時代には、大なる愛と侮蔑とを持ったあの救済する人間が――自らの迫進力によってあらゆる離脱と超脱から幾度となく追い出されるあの創造的精神が、必ずやわれわれの所へ来るに違いない」(115ページ)

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