伝わりますか?【コトノハノコト】

私は、あるいは僕は、ボクは、俺は、我は、吾輩は、おいらは、小生は、当方は、朕は、自分は、

あなたに、もしくは君に、キミに、お前に、汝に、貴様に、おぬしに、お宅に、貴方に、そちに、自分に、

伝え、または語り、話し、吐露し、申し上げ、宣い、漏らし、弁じ、訴え、ただ言いたい。

 日本語は習得難易度の高い言語だと言われると、確かにそうかもしれない。一つの意味を表すための日本の言葉は多様である。でも僕は、僕のことをいう時に、我とか吾輩みたいに偉ぶった言葉や余とか小生のような古びた言葉を選ばないし、もし朕はと言った時に、もうそれが僕とは遠く離れた何者かであると知っている。そして君に語りかける今、決して君には、お前とか貴様などと高飛車な物言いもしないし、君のことを貴女というような遠い存在にもしたくない。さらには、自分は自分に語るのだと内省はしても、君にそう語りかけることはないだろう。そして、君は僕によくおぬしはというけれど、それがなぜかも知っている。

僕は君に伝えたい。君だけに僕は伝えたい。伝えたい、僕は君に。僕は伝えたい、ただ君だけに。

正確さに念入りな僕の性格が、君にはうるさく面倒なのにちがいない。そして僕はこの河にかかる橋の端で野垂れ死ぬように、歴史のレールの片隅でただ轢死するだけだ。

人の上(ア)げ下(サ)げが上手(ジョウズ)な人と下手(ヘタ)な人がいる。何をするのにも君はいつも僕より上手(ウワテ)でいたいのだから、僕はいつも君の下手(シタテ)に出る外ない、のだ。だから、君が上(カミ)新庄に引っ越すと言えば、僕は下(シモ)新庄に移り住もう。

思い想いて、生き活きる。

 日本語は習得難易度の高い言語だと言われると、確かにそうかもしれない。主語や述語や目的語の順序が変わるだけで一つ一つの言葉のニュアンスは変化するだろう。そして、日本式の漢字が持つ多彩な文字と音との交わりは、発話を諦めることなく、ただ言葉の戯れとともに流れてゆくのだ。中年オヤジのダジャレがうるさく感じる気持ち、分かります。でも僕には、中学生の頃に習ったSVOのような英文法の方が、その簡略さのために、かえって難解なものにみえていたのです。

 ではなぜ日本語は習得難易度の高い言語だというのか?たぶん多くの皆さんと同じように、せっかくブログを書くのならより多くの人に読んでもらいたいと思ったのです。分かりやすく丁寧な文章で。美しい日本語で。そして今時らしく、画像とか動画も挟んで出来たらいいな、と。そう思った瞬間に思い出したのが「美しい日本語」という言葉の幻想です。

大阪で生まれ育ち、大阪を出て暮らしたこともない僕は、そもそも日本語でしか話すことも書くこともの出来ないのだから、日本語が母国語でない外国人の方々がこの日本語を習得するためにどれだけの時間や労力を費やすのかも知らないのです。ただ僕にとってはこの「日本語でしか」ということにこそ正に疑念があるのでした。そう、僕には、僕が知っているこの唯一の日本語を徹底的に駆使しても、なお君には僕の気持ちを立派に満足に伝えられないと思われるからです。

 本の紹介をしますね。「美しい日本語」という言葉を聞くと、蓮實重彥さんが『反=日本語論』の中で書かれたある一節をいつも思い出します。この本は、日本語の巧みなフランス文学者である著者が、フランス語を母国語とし日本に来て日本語の習得に苦闘するご夫人と、その父親と母親のもとで生まれながらに二つの言語の間で育つ息子さんとの日常で出会う数多くの言語的葛藤が描かれた書物です。その中の一節、巧みで感動的に書かれた挿話を的確に要約することも僕には難しいので、僭越ながら引用させていただきます。

「出産を間近にひかえた入院中の妻が、深夜の陣痛にこらえきれず、無理にたのんだ当直医に来てもらったときのことだ。東京の、日本語しか通じない病院である。日本についてほぼ一年後だったから、妻の日本語はむしろつたないものであった。だが、夜中にわざわざ来てくれた医師にむかって、詫びの言葉をいうつもりで、彼女は痛みをこらえながら何度も何度も、ゴメンクダサイマセーを絶叫したという。真夜中の病棟に、玄関さきで訪問者が口にする言葉が奇妙なアクセントで響きわたったわけだ。後になって、妻は赤面してこの挿話を物語るわけだが、看護にあたってくれた人たちによれば、ほとんどの女性は、こんな場合にもっともっとわけの解らぬ言葉を口ばしるのだそうだ。妻の場合は、むしろずばぬけて立派な日本語だったという。何のことはない。まだ、音や訓の存在すら知らぬ外国人の女性が、正しく美しい日本語を話していたわけだ。そしてそのゴメンクダサイマセーから数時間後に、われわれは、日本語とフランス語とを同時に母国語として持つ男の子の両親となったのである。」(ちくま文庫、一九八六年第一刷)

 フランス語どころか、英語もドイツ語も中国語も韓国語も理解しない僕には、外国語を話す嫁もバイリンガルの子供もいないのだから、この挿話に描かれた言葉の美しさが日本語に特有のものであるのかどうかをはかるすべもない。けれど、遠い異国から来た留学生や道を尋ねる観光の外国人に話しかけられただけで、うろたえ、はにかんでやり過ごす僕に、「美しい日本語」を語ろうと小生意気に傲慢にそしてただ安直にぼんやりと思いあがっていただけの僕に、そんな幻想を放棄させてしまうには十分であると思う。そして、すっかり開き直ってしまった僕は言うだろう。僕はただ君に伝えたいのだ、と。回りくどくて、曖昧で、下手糞で、稚拙で、ぎこちなく、要領を得ない、赤ん坊の泣き声のような、このコトノハで。

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