【原題】
Ethica, ordine geometrico demonstrata 1677(幾何学的秩序によって証明された、倫理学)
【参照テクスト】
スピノザ『エチカ 上・下』岩波文庫、1975改版、畠中尚志訳
【時代背景】
1632年、スピノザはオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の国際都市アムステルダムで生まれ育ちました。両親はセファルディム(イベリア半島のスペイン・ポルトガルから追放されたユダヤ人の子孫。キリスト教への改宗を強制され、後にユダヤ教に回帰した人々)。
彼自身は23歳の時に、ユダヤ教の伝統的な教義に疑問を呈したためユダヤ共同体からの「破門(ヘレム)」を宣告され、以降は特定の宗教組織に所属することはありませんでした。そこには「擬人化された人格神」を否定し、「神即自然」として語られる『エチカ』の核心的概念の萌芽があったと言えます。
当時のオランダは、スペインから独立して建国されて以降、貴族よりも都市の商人が権力を持ち、ヨーロッパで最も経済的に繫栄した自由の気風がありました。同時に、宗教的には国家としては寛容(実利的な「黙認」)の態度でしたが、教条主義的なカルヴァン派やユダヤ共同体からの監視・弾圧が共存していました。
また政治的にも、自由主義的な「共和派」と宗教的保守層に支持された「オラニエ公派」が対立していました。
スピノザは共和派の指導者ヤン・デ・ウィットと親交がありました。しかし、1672年「災害の年」(フランス、イングランド、およびドイツの2つの司教国から同時に侵攻を受ける)と呼ばれる国家存亡の危機の中で、狂乱状態に陥ったハーグ市民にデ・ウィットが惨殺されるという事件が起こります。この事件に激昂したスピノザは、惨劇の現場であるハーグの広場に掲げるため「最下等の野蛮人どもよ (Ultimi Barbarorum)」と書いた抗議の貼り紙を用意しましたが、スピノザの身を案じた家主ファン・デル・スパイックが、家のドアに鍵をかけ、彼を物理的に閉じ込めて外出を阻止したことで未遂となり、スピノザは一命をとりとめたと言います。
また当時のヨーロッパは科学革命の勃興期(ガリレイやニュートン前後の時代、自然を「数学」で記述する機運の中)にあると言えます。スピノザは「レンズ磨き」という職業によって生計を立てていましたが、それは科学革命の一翼とも言える光学への深い関わりであったと言えます。
この時代において、ヤン・デ・ウィットの惨殺という悲劇を経て、『国家論』にみえる「群衆は理性的ではなく、情念によって動く」という冷徹な視線から、情念を排除し、徹底的に理性的・客観的に「数学的記述様式」によって書かれた『エチカ』は生まれました。
【ノート】
スピノザの『エチカ(倫理学)』は、人間を隷属(感情の翻弄)から解放し、真の自由と幸福(神への知的愛)へと導くための哲学です。その記述は、「幾何学的秩序」によって、すなわち感情や先入観を排除し、事物を幾何学の図形を描くように理性的・客観的に捉える、という手法が用いられています。
第一から第五の各部は、数学の公式のように、次のような枠組みで構成されています。
「定義:Definitiones」(その事物が何であるか、その本質を過不足なく言葉で固定したもの)
「公理:Axiomata」(証明を必要としない、誰もが認めざるを得ない思考の共通ルール)
「定理(命題):Propositio」(定義と公理を辿ることによって導き出される、それ以外にはあり得ない必然的な結論)
「証明:Demonstratio」(ある定理が、先行する定義・公理・定理からいかにして必然的に導かれるかを示す論理のプロセス)
「系:Corollarium」(定理から直接、あるいは付随的に導き出される追加の結論)
「備考:Scholium」(論理の連鎖を一時中断し、直感的な説明や反対論への反論、具体例、日常言語への置き換え、などの記述)
「付録:Appendix」(人間の「偏見・誤謬」に対する批判的エッセイ。定理の積み上げでは書ききれなかった心理的な抵抗感や、社会的な宗教観を根本から解体)
※スピノザの「定義」や「公理」は、厳密に過不足なく記述されたものですので、本来ならば一字一句変わることなく読まれるべきものですが、未読の読者による意訳の一つとして、以下のノートを作成したいと思います。

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