ニーチェ『道徳の系譜』ノート(2)

第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか

禁欲主義的理想:生への欲求、力への意志を抑圧すること。第一・二論文で語られたように、「能動的な支配的本能」が「悪」でありまた「罪」であるとし、それを内面化させる教えによって人々を縛ったキリスト教的道徳観。

〇禁欲主義的理想は様々な人々によって多くの意味を有する。
・芸術家ワーグナーにとって:
晩年に描いた『パルジーファル』において、禁欲主義的理想を「悲劇的なもの自体に対する、これまでの戦慄すべき地上の厳粛や地上の悲嘆全体に対する、禁欲主義的理想の反自然性がもつついに克服された最も粗大な形式に対する、極度に奔放で剽軽な戯擬詩(パロディ)」(121ページ)にしたとも言えるが、「真面目に考えると」それは(礼賛であれ、批判的にであれ)禁欲的理想への迎合である。

・哲学者ショーペンハウアーにとって:
カントは美学上の問題を自己経験が欠如した「鑑賞者」として扱った。すなわち「美とは関心なしに心に適うものである」(128ページ)と。ショーペンハウアーはカントの「無関心」を、性的「関心」への反作用として利用した。しかしそれは禁欲主義者が、カントを利用し「極度に個人的な関心から、すなわち、拷問を受けている者が、その拷問から脱れようとする関心から美を楽しむ」(130ページ)態度である。しかし個人的な「官能」という敵を持つことによって、ショーペンハウアーは厭世家とはならずに生存に留まった。

・禁欲的理想主義に対する哲学者特有の偏頗(ひいき)と愛着
「あらゆる動物は、従って《哲学者動物》もまた、各自の力が完全に発揮しえられ、各自の権力感情の《最大》が発揮されるに好都合な《最善》の条件を本能的に追求する。あらゆる動物はその《最善》への道を遮るような、また遮りそうな一切の妨害や障碍を同じく本能的に、しかも「すべての理性よりもさらに高い」繊鋭な嗅覚をもって忌避する。」(132ページ)
・哲学者たちは禁欲主義的理想の価値については何も考えず、ただ個人的な静寂を(哲学者としての自由を)得るための最善の生存条件として利用するのみである。
・ショーペンハウアーにとっての「官能」はもはや性的刺激の意識にも上らないもの。
・哲学者の生存条件としての禁欲主義的理想という仮装
最古の観想的人間(哲学者)は、不活発で、思案顔で、非戦闘的な「不気味さ」を覆い隠すために、禁欲主義的理想という仮装をまとい人々の恐怖・畏怖を呼び起こした。哲学者は「僧職者・呪術者・預言者となり、一般に宗教的人間とならなければならなかった。禁欲主義的理想は長い間哲学者のために出現の形式として、生存の前提として役立ってきた。」(145ページ)

・禁欲主義的僧職者
◎人間の病的状態。
「生を敵視する」禁欲主義的僧職者は、禁欲生活において生きながらえる。その自己矛盾を支配するものこそが《反感(ルサンチマン)》。すなわち生理的繁殖そのもの(その表現、美しさ、悦び)に対する《反感》によって、禁欲主義的理想によって、「逆説的に」生きながらえる。
「禁欲主義的理想は頽廃しつつある生の防衛本能と求治本能から発生する」(151ページ)
外見上の「生の敵」、その否定者である禁欲主義的僧職者こそが、不具者・不調者・破産者・失敗者・自己苦悩者を「頽廃」から守り、彼らを生に繋ぎとめる先頭者として生の「保守力」となり「肯定力」となる。
「禁欲主義的僧職者はわれわれにとって、病める畜群の予定された救い主であり、牧者であり、また弁護人でなければならない。……苦しんでいる者に対する支配が彼の王国である。この支配は彼の本能が彼に命ずるところであり、この支配のうちに彼の最も独特な技倆、彼の卓絶した手並み、彼一流の幸福が示されている。彼自らがまず病気にならなければならず、病人や廃人とすっかり縁者にならなければならない。それで初めて病人や廃人を理解すること――彼らと理解しあうことが出来るのだ。しかも一方、彼はまた強くもなければならず他人に対してより以上に自分に対して支配的でなければならず、わけても不死身の権力意志をもっていなければならない。それで初めて病人どもから信頼され畏怖されることができ、病人どもの足場となり、防障となり、支柱となり、強圧となり、典獄となり、暴君となり、神となることができるのだ。」(159ページ)

・禁欲主義的僧職者による《反感(ルサンチマン)》の方向転換
病める人間の苦しみ、そこから生まれる《反感》を病める人間自身に向かわせること。「負い目」「罪悪感」を芽生えさせること。
自分が苦しいのは誰かのせいだと病者は考える。その病者に向かって禁欲主義的僧職者はこう言う。
「私の羊よ、全くその通りだ!それは誰かの所為に違いない、だがお前自らこそその誰かなのだ、それはお前自らだけの所為なのだ、――お前自らだけの所為でお前はそうなっているのだ!」(162ページ)

・禁欲主義的僧職者は苦しむ者の不快を癒すのであって、その原因そのもの、その病自体を治すのではない。すなわち生理的阻害感情・不快感情との戦い。
◎苦しさの麻痺
①生活感情一般を引き下げること。あらゆる意欲・願望を持たないこと。「脱自(解脱)」あるいは「催眠」によって。
②機械的運動によって:一つの行為を繰り返させることによって意識を独占し、苦しみから意識をそらすこと。
③小さな悦びを与えることによって:施しを与える、便宜を与える、援助するなど「隣人愛」と呼ばれる最小の優越感が持つ幸福をえること。
④共同体(教会)への所属によって:ローマ世界において抑鬱された弱者の相互扶助の集まりは、その勝利の後、共同体への意志、力への意志となり、やがては(畜群としての)団結そのものが喜びとなった。
◎「罪の意識」あるいは負い目の感情を利用することによって。
「人間は何らかの仕方で、少なくとも心理的には、さながら檻の中に閉じ込められた動物か何かのように、理由も目的もわからずに、自己自身によって苦しめられている。彼は理由を求める――理由は苦しみを和らげるからだ――、彼はさらに医薬を求め、麻酔を求める。ついには隠されたものをも知っているような人間に相談をもちかける――すると、どうだ! 彼は一つの示唆を受けるのだ。彼は彼の魔術師から、禁欲主義的僧職者から、彼の苦しみの「原因」について最初の示唆を受けるのだ。――曰く、お前はお前の苦しみの原因を自分自身のうちに、負い目のうちに、過去の一片のうちに求むべきだ、お前はお前の苦しみそのものを一つの刑罰状態と解すべきだ、と……」(179-180ページ)
・「罪の意識」は病者の理由の分からないという苦しみを和らげるには効果があった。しかし、贖罪の苦行、悔恨、救済の痙攣によって、病者は病的状態を「不気味に」進行させ、神経系に錯乱をきたし、やがてヨーロッパ全土がこの宗教的神経症に冒された。死を切望する集団的心理。
「ヨーロッパ人の健康と人種的強大に対してこの理想ほど破壊的な作用をなしたものを他に提示することは、私には殆んど不可能と言ってよい。」(183ページ)
こうして病的状態にある人間は「罪悪」を背負う人間として生きることとなった。

・近代科学は、禁欲的理想の反対物ではなく、「良心の疚しさの隠れ家」として最も新しく最も高貴な形式そのもの。「無理想」という不安を隠し、「愛の欠如」という苦しみを隠し、「強いられた満足」という不満を覆い隠す。
・無神論者たち(反キリスト者、不道徳者、ニヒリストたち)は、自ら禁欲主義的理想から遠く隔たっていると思っているが、彼らの「真理」が証拠立てられることはなく、むしろ彼らは彼らの「真理」を信じているがゆえに、自由な精神からまた遠く隔たっている。
「禁欲主義を強いるもの、すなわち真理へのあの無条件的な意志は、禁欲主義そのものに対する信仰(たといそれの無意識的命令としてであるにもせよ)である。諸君はこの点について錯覚を起こしてはならない――それは一つの形而上学的価値、真理の価値自体に対する信仰であり、そしてこの信仰は、ただあの理想のうちにおいてのみ保証され、確認される(この価値はあの理想と浮沈を共にする)。(193ページ)

・「神の死」、キリスト教の神に打ち勝ったもの。
キリスト教的誠実さ、その2000年にわたる訓練の果てに、その誠実さゆえに「神に対する信仰という虚偽」を自ら禁止することになる。その精神は「科学的良心」や「知的潔白」へと翻訳され、ついには「神の意志」という虚構を自己止揚させた。
「われわれの全存在は、われわれ自身のうちにおいて真理への意志がそれ自らを問題として意識するようになるという意義を持つのでないとしたら、果たしていかなる意義を持つのであろうか…… 真理への意志のこの自覚によって、今後――それには疑いの余地はない――道徳は没落する」(206ページ)

・「禁欲主義的理想は何を意味するか」
「禁欲主義的理想」に出会うまで、人間という動物は、生きることに何の意義も何の目標も持たなかった。
「禁欲主義的理想」が意味するもの、それは人間には何かが欠如しているという、まさに空隙そのもの。
何の意義もないという苦しみに代わるものとして「罪の意識」を与えられ、「魂(人間の内面)」及び新たな苦しみもまたそこから生まれた。
「禁欲主義的理想」、それは「無への意志であり、生に対する嫌悪であり、生の最も根本的な前提に対する反逆である。しかし、やはりそれが一つの意志であるということに変わりはないのだ!……そこで、私が最後にもう一度繰り返すならばこうである――人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである、と……」(208ページ)

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